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庶民教育の原点、国指定特別史跡&日本遺産「旧閑谷学校」備前市

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庶民教育の原点、国指定特別史跡&日本遺産「旧閑谷学校」備前市

10年前の紅葉時(11月6日)に訪れた時のものですが、そう言えばこの年の師走、頼んでも無い翌年の干支の掛軸を私が注文したかのような非通知の電話がかかってきて(家内が対応)こちら次第では金銭の請求の話になっていたんだろうと思いますが、この時期になって来ますとこう言った詐欺紛いの事がよくありますので要注意です!

師走恒例と言えば赤穂浪士が登場してきますが、
その元禄赤穂事件が起こった元禄14年(1701年)の同年にこの学校が完成しました。
創建は1670年で庶民や地方のリーダーを育てる学校として岡山藩主池田光政公が重臣津田永忠に建設を命じ作らせました。(完成した1701年は2代目藩主綱政公の時)
その後は1870年の明治3年、廃藩置県により閉校となったものの3年後の1873年(明治6年)には山田方谷を招聘し、閑谷精舎として再開。
4年後の1877年(明治10年)に山田方谷が死去して学校は休止となったが、7年後の1884年(明治17年)に西毅一によって私立閑谷黌を開校。

※現存する庶民を対象とした学校建築物としては世界最古のものと言われています。

紅葉の方は丁度見頃を迎えていて、ライトアップ期間が11月7日までと聞いてましたが、もう少しずらしても良かった感じがしました。


○特別史跡旧閑谷学校 津田永忠(つだながただ)宅跡

池田光政の命を受けて閑谷学校を創建した津田永忠の屋敷跡。
永忠は光政没後も綱政に郡代として登用され閑谷学校を現存する姿に完成させるとともに各地で多くの土木事業を完成させた。
晩年は現在の和気町奴久谷に隠棲した。


○特別史跡旧閑谷学校 黄葉亭
文化十年(1813)、武元君立・有吉行蔵,両教授によって建てられた休憩所で、来訪した頼山陽や管茶山もここで茶を楽しみ酒を汲み交わしている。
頼山陽に「黄葉亭記」がある。



石塀の奥に見える大きな建物(右)が国宝の講堂です。そして左側に白壁が見えるのが文庫、更に小山を挟んでその後方の建物が資料館となっています。

○石塀(せきへい)重要文化財
校門の左右から出て、閑谷学校の施設をすべて囲み全長765Mにもおよんでいる。
河内屋治兵衛を棟梁とする石工集団によって築かれたもので「切り込み接ぎ式」の工法が用いられており、元禄十四年(1701)に完成した。
内部には洗浄した割栗石をつめて排水を助けており、三百年を経て今も端然たる姿をたたえている。



○校門(こうもん)重要文化財

聖廟の正門として建てられたもので中国最古の詩集である「詩経」の中の詩に因んで「鶴鳴門」とも呼ばれています。
両脇に花頭窓のある付属屋を付けるなど中国の建築様式を模しており、貞享三年(1686)の造営。(ここからの入場は出来ません。)



入場して最初に目に入ってくるのがやはりこちらの櫂の木でしょうか・・

※櫂の木
楷は東南アジアや中国に自生するウルシ科の植物。
大正四年(1915)林学博士白沢保美氏が中国・曲阜の孔子墓の楷の実を持ち帰り育苗したのが日本における最初のものである。
その内の二本が大正十四年に閑谷学校に寄贈され移植された



左は国宝の講堂



講堂
旧閑谷学校の屋根瓦は備前焼が10万枚使用されています。
その内この国宝の講堂には4分の一の2万5千枚が使用されています。


○講堂(こうどう)国宝

元禄十四年(1701)の完成で内部は十本の円柱に囲まれた内室と、その周囲の入側からなり外廻りを広縁でとりまいている。
材料の吟味と施工が入念になされており、今日に至るまで一分の狂いもみられない。
一・六の日の四書の講釈、釈菜の講経、正月の読初めの儀、藩主臨学のときの講釈がおこなわれた。
この中には入れません。


講堂(国宝)の床紅葉



左側の石塀(重要文化財)の先に見える門が公門、右手前に見える建物(講堂南隣りの部分)が小斎。

○小斎(しょうさい)重要文化財
延宝五年(1677)に建造されたもので、藩主臨学の際の御成の間である。
質素な材を用いた数寄屋造りで一の間、二の間の二室からなり、納戸・浴室・雪隠が付属している。
この建物だけがこけら葺きで現存する建造物の中では、最も古い姿を残している。

○公門(こうもん)重要文化財
藩主臨学の際に使用した門で御成門ともいう。
本柱の後ろに控柱二本を建てて切妻屋根をのせる薬医門様式の建物で、石塀が築かれた元禄十四年(1701)の時点で設置された。



講堂西側部分の習芸斎と飲室(左側の小さい入口)

○習芸斎(しゅうげいさい)重要文化財
毎月朔日(ついたち)には朱文公学規の講話がなされ、近隣の百姓の聴講も許された。
三・八の日には五経などの講釈が行われた。
床に用いられている材は栂(とが)で、天井は張っておらず太い自然木が見える野天井です。

○飲室(いんしつ)重要文化財
生徒の休憩室で湯茶を喫することができた。
中央の炉のふちには「斯爐中炭火之外不許薪火」と彫り込まれており、火の使用に厳重な注意がはらわれていた。
土間の片側にある竹の簀の子の下には石づくりの流しが配されている。



  • ○文庫(ぶんこ)重要文化財

    閑谷学校の教科書・参考書をおさめた書庫で、中央の階段を上がった左右の床に八千点余が所蔵されていた。
    漆喰塗で固めた上を瓦葺きにした置屋根式で、前室には三重の土の戸を含む六層の戸が設けられている。

    後方の小山は火除山(ひよけやま)と言ってこの山の西側に学舎や学房(寄宿舎)などがあり、そこからの出火が講堂などに及ばないようにするため、防火の目的でつくられた人工の山である。


  • ○資料館
    明治三十八年(1905)に建てられた洋風の校舎の本館部分を活用して7つの展示場が設けられている。
    多くの旧閑谷学校の貴重な資料が展示されている。ビデオ室もある。

    ○江戸時代からの学房跡


櫂の木後方は聖廟

○聖廟(せいびょう)重要文化財

大成殿・聖龕・東階・西階
中庭・文庫・厨屋・繫牲石
外門・練塀・石階・校門・石橋
儒学の始祖孔子を祀っており、孔子廟または西御堂ともいう。
本殿にあたる大成殿は貞享元年(1684)の完成で内部の厨子には元禄十四年(1701)鋳造の孔子像が安置されている。



今度は校門側の正面から・・

正面は聖廟



丁度良いタイミングでした。
櫂の木が青空に映えてきれいでした。


聖廟の東隣は閑谷神社

○閑谷神社(しずたにじんじゃ)重要文化財

本殿・幣殿・拝殿・中門
神庫・石橋・練塀・繫牲石
閑谷学校の創設者である岡山藩主池田光政を祀るために貞享三年(1686)に建てられたもので、もとは光政の諡(おくりな)にちなんで芳烈祠または西の聖廟に対して東御堂といわれた。
明治八年(1875)に神社格付けされ閑谷神社と改称した。
本殿内に宝永元年(1704)に鋳造された光政の金銅製座像が安置されている。


































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