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ああ 野麦峠(女工哀史) 長野県~岐阜県

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ああ 野麦峠(女工哀史) 長野県~岐阜県

欧米列強にて国力で大きな差をつけられたことでこれが安政の不平等条約を押しつけられて多くの苦難を味わうことになった明治政府。

それを解消すべく、万国並立・万国対峙を掲げて列強に経済・軍事両面で追い付くことによって条約の改正と国家の保全、近代化を目指し明治政府の国策の基本である富国強兵において外貨獲得はどうしても成し遂げなければならない事でした。

そう言った時代の流れの中で当時の近代日本を支えた産業が水の豊富な長野県諏訪地域における製糸業でした。
涙ぐましい女工達の働きによって、国は生糸の輸出を増やし、娘を出した農家では、現金収入を得ることができました。

「ああ 野麦峠(女工哀史)」はそんな時代背景の中で貧しく苦しい時代を懸命に生き抜いた人々を強く浮き彫りにするように描かれているものです。
映画では実存人物の政井みねさん等出稼ぎ女工さんの悲惨な面を強調されていますが、実際は仕事が無い時代に百円工女など恵まれた環境にて家を新築できるほど裕福な人達もいたようです。


○諏訪湖(手前は諏訪市)

明治42年には、日本は中国を追い抜き、世界一の生糸生産国となり、生糸は輸出の50%ほど占めるに至ります。
それを支え日本の近代化に貢献したのが岡谷でした。製糸結社から独立し、県外に進出にして経営を拡大する製糸家が続々と登場し、岡谷の製糸は全盛を迎え、世界一の生糸輸出国の中枢的役割を担ったのです。

製糸業の発展は、岡谷のまちの発展にも大きな影響を与え鉄道の開通や、交通、郵便、電信・電話の整備、電気の普及、病院の設置、教育など、岡谷の人々のくらしにも大きな貢献を果たしました。

政井みねの働いていた山一林組もその岡谷(諏訪湖の北西)にありました。



政井みねの働いていた旧山一林組(現・岡谷絹工房)

政井みねは岐阜県吉城郡河合村(現飛騨市河合町角川)の農村部に生まれました。当時はまだ貧しい農村部では、自らが出稼ぎに出る事で実家の食費を浮かし、家計を助けるという「口減らし」が一般に行われており、みねも家庭の生活費を助けるために信州の岡谷へ出稼ぎに出る事となった。
明治政府による富国強兵のもと、外貨獲得のために日本の近代化を支えたものは水の豊富な長野県諏訪地域における製糸業であり、みねを始め多くの女性労働者が家族との別れを惜しみつつ野麦峠を越え出稼ぎに出る、当時はそんな時代でした。
みねが100人以上の工女とともに信州・岡谷に向かったのは14歳になった1903年2月。

製糸工場、山一林組で働く事となったみねを待っていたものは、現在とは比較にならないほど劣悪な環境下での労働でした。
15時間にも及ぶ長時間労働に加え、蒸し暑さや悪臭などが漂う工場での労働は生半可なものではなく、工女の逃亡を防ぐため工場に鉄製の桟が張られているという監獄にも近い状態であったが、みねを含め多くの少女たちは自分の賃金で実家を助けるため、また工場が休みとなる正月に両親と再会できることを信じ、歯を食いしばって耐えたのでした。(その結果、当時の生糸の輸出は日本の総輸出量の3分の1にもなった)

時は経ち、工女の模範となって年収が百円を超えた(通称、百円工女)みねに突然訪れた病、それは重度の腹膜炎でした。「ミネビョウキスグヒキトレ」という工場からの電報を受取り知らせを受けた兄の辰次郎はみねを引き取りに角川部落から岡谷まで七つの峠と30数里の険しい山道を、宿にも泊らず夜も休みなしに歩き通して、たった2日で岡谷の山一林組工場にたどりつきました。
辰次郎は病室へ入ったとたん、はっとして立ちすくみ美人と騒がれ、百円工女ともてはやされた妹みねの面影はすでにどこにもありませんでした。やつれはててみるかげもなく、どうしてこんな体で十日前まで働けたのか信じられませんでした。
工場では辰次郎を事務所に呼んで十円札一枚を握らせると、早くここを連れだしてくれとせきたてた。工場内から死人を出したくないからでした。
辰次郎はむっとして何か言いかけたが、さっき言ったみねの言葉を思い出してじっと堪えて引きさがった。
「兄さ、何も言ってくれるな」みねはそう言って合掌。
飛騨へ帰って静かに死にたがっているのだと辰次郎はすぐ察しました。準備して来た背板に板を打ちつけ座ぶとんを敷き、その上に妹を後ろ向きに坐らせ、ひもで体を結えて作業中で仲間の見送りもなく、ひっそりと工場の裏門から出ていきました。

辰次郎は悲しさ、くやしさに声をあげて泣き叫びたい気持をじっと堪えて、ただ下を向いて歩いた。みねは後ろ向きに負われたままの姿で、工場のほうに合掌していました。その時、
 「おお 帰るのか、しっかりしていけよ、元気になってまたこいよ」
  あとを追ってきた門番のじいさんが一人だけ見送ってくれました。
 「おじさん、お世話になりました」
 「元気になってまた来いよ、心しっかりもってな」
二人はお互いに見えなくなるまで合掌していました。辰次郎はこの門番の言葉にやっと救われた思いで歩き始めました。それはこの岡谷に来て初めて聞く人間らしい言葉だったからです。

守衛所

辰次郎は、松本の病院へ入院させるつもりで駅前の飛騨屋旅館に一泊した。
この旅館の経営者中谷初太郎は辰次郎たちと同郷の河合村角川出身者で、その彼も一緒になって、みねに入院することを勧めたが、
自らの死を既に悟ったのであろうか、みねは故郷の飛騨へ帰りたいと拒否、気持は変りませんでした。

仕方なく辰次郎はそこを経ち野麦街道を新村、波田、赤松、島々、稲核、奈川渡、黒川渡、寄合渡、川浦と幾夜も重ねて、野麦峠の頂上にたどりついたのが11月20日の午後でした。
その間みねはほとんど何もたべず、峠にかかって苦しくなると、つぶやくように念仏をとなえていた。峠の茶屋に休んでそばがゆと甘酒を買ってやったが、みねはそれにも口をつけず、
 「アー飛騨が見える、飛騨が見える」と喜んでいたと思ったら、まもなく持っていたソバがゆの茶わんを落して、力なくそこにくずれた。
 「みね、どうした、しっかりしろ」、辰次郎が驚いて抱きおこした時はすでにこと切れていた。

 「みねは飛騨を一目みて死にたかったのであろう」、そういって辰次郎は60年も昔のことを思いだして、大きなこぶしで瞼を押え声をたてて泣いていた。当時の彼の衝撃が想像されます。


松本方面から野麦街道へ(奈川の宮ノ下トンネル)
当然のことながら当時はこのような立派なトンネルはありませんでした。


今は道もきれいに舗装されています。


復元された石室

特に冬の厳しい時など凍死を免れるために造られた。


旧野麦街道マップ


○ワサビ沢旧野麦街道入口

1300Mの旧野麦街道(赤線ライン)

野麦峠まで後少し・・兄妹は峠まで必死に登っていったのでしょう。


私は車でこちらの39号線を登っていきます。

この通り沿いに猿の集団がいました。


松本市(長野県)から高山市(岐阜県)へ

野麦峠は丁度その県境にあります。


こちらが野麦峠へと出てきた場所になります。(1672.2M)


そしてこちらがこれまで通ってきた長野県側の風景です。


○野麦峠(1672M)

「ああ 野麦峠」石碑


○お助け小屋

明治時代の生糸の生産は、当時の輸出総額の3分の1をささえていました。現金収入の少なかった飛騨の農家では、半ば身売り同然の12歳そこそこの娘達が、野麦峠を越えて信州の製糸工場へ「糸ひき」として年季奉公に出さされました。
そして、大みそかに持ち帰る糸ひきのお金は、飛騨の人々には、なくてはならない大切な収入になっていました。年の暮れから正月にかけての借金を返すためにも、あてにされたお金だったと言われています。

2月も半ばを過ぎると、信州へ働きに行く古川周辺の娘達は古川の八ツ三旅館に1泊し、次の日高山で、あちこちの村々から集まってきた人達と一緒になりました。宿屋の前には、山一・山二・片倉組・小松組などの岡谷の製糸工場の社名を書いた看板や高張り提灯が立ち、娘を送ってきた親と子の別れがいつまでも続きました。
そして、何百、何千という女工が列をつくり、お互いに励まし合いながら、雪深い野麦峠を越えて信州へ旅立っていきました。

1903年2月、交通の難所として名高い野麦峠の中でも厳冬の時期は最も過酷な条件となる頃で、雪は氷の刃と化し、少女たちの足を容赦なく切り裂いた。
「野麦の雪は赤く染まった」と言われる所以である。また、足を踏み外して谷に滑落する者、峠の宿(お助け茶屋)に入りきらずに吹雪のなか外で夜を明かす者もいたという。

信州の工場では、わずかの賃金で、朝の5時から夜の10時まで休みもほとんどなく過酷な労働に従事しました。
蒸し暑さと、さなぎの異臭が漂う中で、少女達が一生懸命、額に汗をしながら繭から絹糸を紡いでいた。苛酷な労働のために、結核などの病気にかかったり、病気になっても休ませてもらえないくらい厳しい生活が続き自ら命を絶つ者も後を絶たなかったといいます。

(参照 郷土古川より↓)
当時、実際働かれていた人は「雪が降ってくりゃ、野麦峠には銭が降ると思って行け。と親にいわれたんやぜな」(明治15年生)

「おりだち(私たち)は、こんで(これで)飛騨とも別れるんやな、ツォッツァマ(お父さん)、カカサマ(お母さん)、まめでおってくれよ(元気でいて下さい)。といって、飛騨と信州の境で、みんなでしがみついて泣いたんやぜな」

「13歳のとき、岡谷の山共製糸というとこへ7年契約で入ってな。姉4人といっしょで、姉はみんな百円工女やったもんで、オリ(私)も負けんように働いたもんやさ。みんなで稼いだ銭で、ツォッツァマ(お父さん)は毎年田んぼを買いなたと思うんやさ。たしか、あのころ1反(10アール)で100円か 150円くらいやと思うけどな」(明治24年生)

「岡谷の大和製糸へ14のときから8年の間、野麦峠を越えて通ったんやぜな。入ったときゃ10円、2年目は25円、3年目には45円、8年目にはたしか95円もらったと思うけどな。そのほかに、賞与として1円、2円、3円、5円などを毎年ちょっとずつもらったんやさ」(明治31年生)

以上の話しでもわかるように、1年間働いて100円もらえる人は優秀な人で、だれでも1日も早く100円工女になれることを願っていました。

こうした涙ぐましい女工達の働きによって、国は生糸の輸出を増やし、娘を出した農家では、現金収入を得ることができたのです。(以上)

当時の百円の価値はどれくらいだったのでしょうか?
百円あれば家が建つといわれたほどでした。米一升が、12銭3厘・酒一升が20銭。(明治33年・100銭で1円) 当時の農家は、貧しくて白米は食べられず、ヒエや粟が混じった飯を食べていた。

どれくらいの人が糸ひき稼ぎにいったのでしょうか?
資料によると、旧山田村(神岡町)では300戸あるうち、560人。一軒で2,3人のところもあった。国府村では、458名(明治43年)。ひとつの村でこれだけの数であるので、飛騨全体では凄い数になると思われるが、他の地域では当時のそうした記録が残っていない。

女工哀史は粗悪な食事、長時間労働、低賃金が定説になっていますが、飛騨関係の工女は食事が悪かった・低賃金だったと答えたものはいなかった。長時間労働についても苦しかったと答えたのはわずか3%だけで、後の大部分は「それでも家の仕事より楽だった」と答えている。それもそのはず、家にいたらもっと長時間、重労働をしなければ食っていけなかった時代です。


      
政井みねの碑               ああ 飛騨が見える
この碑は岐阜県の村によって       (政井みねと兄の政井辰次郎の石像)
建てられたものですが、何故か
資金は吉永小百合さんから送られている。

明治42年11月20日午後2時、野麦峠の頂上で政井みね(21)は息を引きとりました。その病女を背板にのせて峠の上までかつぎ上げて来た兄の政井辰次郎(31)

実存した政井みねの墓は、河合村角川(つのがわ)にある専勝寺の真裏にあります。(河合小学校の隣)
みねの妹「ふよ」も糸ひき稼ぎに行きました。その後病気で帰り、長い病の後やはり同じ腹膜炎で亡くなりました。

当時は、今のように健康保険があるわけでなく医者代は高く、せっかく稼いだ少しばかりの金はたちまち消えてしまう。よほど重症にならない限り、医者にかかるということをしなかった。結核は不治の病とされ、村の年寄り衆は病気で帰る工女に出会うと生きているのにすでに仏に向かうように合唱して見送ったという。

工女千人について23人という高率の死亡推計があり、その7割が結核という。



みねも息を引き取る前にこの乗鞍岳を見たのでしょうか・・(野麦峠より)


政井みねの故郷、岐阜県吉城郡河合村(現飛騨市河合町角川)


生誕地


みねの墓がある専勝寺。

本堂の奥にお墓があります。


      
明治42年11月21日死去        兄の辰次郎がみねのために作った親鸞像
                     
                     辰次郎はもうひとつ弘法大師像(河合村)
                     を作っていますが、この2つの像を作る
                     費用を稼ぐため夢中で働いたと言われてい
                     ます。


拍手[14回]

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コメント

1. 無題

旅人さん、こう来ましたかあ。。

渾身の文章とお写真。素晴らしい。
しばらくブログのアップなくて、もしや夏バテかや?と心配してたり。よかった〜。
自分の学友には甲府、諏訪の出身もいて、その地方へよく遊びに行きました。懐かしい。

次,は、どこを攻めてくるですかね。

2. 無題

昔若い頃、ああ野麦峠の映画を一人で見ました。泣きました。今あらためて文章を読ませて頂いていただき思い出しました。大変な時代を懸命に生きて、過酷でとてもかわいそうな子供たち。あんなに山々の景色は素晴らしいのに。これからの子供たちみんなに元気で幸せになって欲しいと願わずにはいられません。旅人さんありがとう。

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